LOGIN第45話 十万人を救うために、一人を聖王にはさせない
「戴冠を止めれば、聖都にいる十万人が全員死ぬ」
祭壇に拘束されたカナタの言葉が、斜線入りの円を通じて俺へ届いた。
大聖堂の床を覆う巨大な術式は、心臓のような間隔で赤く脈打っている。光が強くなるたびに建物全体がわずかに沈み、天井から細かな石灰が落ちた。聖都中心部を支える浮遊術式が不安定になっているという御厨の推測は、間違っていないらしい。
祭壇を囲む聖都議会の者たちは、揺れを恐れていなかった。
自分たちだけは安全だと信じているのか、それとも十万人を人質にすればカナタが必ず折れると確信しているのか。どちらにしても、都市ごと谷底へ落ちる可能性を前にして、ずいぶん落ち着いていた。
「カナタ、聞こえるか」
俺は物陰に身を隠したまま、同意通訳の細い光へ意識を向けた。
「聞こえてる。ただし、大声で話しかけないでくれ。聖冠が俺の意思を読み取ろうとしている。おまえとの道に気づかれたら、遮断されるかもしれない」
カナタは祭
第48話 婚約者と同じ屋根の下で暮らすことになった世界を救った翌々日、俺は婚約者の住まいへ引っ越した。そう説明すると、苦難を乗り越えた男女がようやく穏やかな暮らしを始めたように聞こえる。しかし実際には、俺の荷物は着替えが数着と、日本から持ってきた父さんの家の鍵、それにリシアたちから贈られた品が少しあるだけだった。身一つで異世界へ召喚され、一度は役立たずとして追放された男の引っ越しなど、荷造りよりも護衛と侍従の人数を調整するほうが時間がかかる。東の離宮は、始祖宮の本殿から渡り廊下でつながった三階建ての宮殿だった。白い石壁には蔦を模した銀細工が施され、庭には冬でも枯れない青い花が咲いている。屋敷というより、俺が元いた世界なら観光地として入場料を取れる規模だ。その玄関前に運び込まれた俺の小さな旅行鞄を見て、リシア付きの侍女たちは困った顔をしていた。「遥人様のお荷物は、本当にこちらですべてなのでしょうか」年長の侍女が遠慮がちに尋ねた。「全部です。剣も鎧も持っていませんし、服だって必要になったら用意してもらっていましたから」「書物や収集品、故郷からお持ちになった調度品などはございませんか」「故郷から持ってきたのは、着ていた服くらいですね。それも召喚された直後に破れました」正直に答えると、侍女たちは気の毒なものを見る顔になった。同情されるような話をしたつもりはない。物が少なければ掃除も楽だと考えていたくらいだが、皇女の婚約者として暮らす男の全財産が、侍女一人でも持ち運べる鞄へ収まっているのは問題らしい。「勝手に哀れむな」リシアが侍女たちへ釘を刺した。「遥人は所有物が少ないことを恥じていない。必要な物があれば、本人へ確認してから用意しろ。婚約者らしい服や装飾品を揃えるという名目で、本人が望まない物まで押しつけることは許さない」「承知いたしました」侍女たちは一斉に頭を下げたものの、どこか残念そうだった。新しい主人を着飾らせる機会を楽しみにしていたのかもしれない。「ただし、公式行事に必要な衣装は別だ」
第47話 世界を救っても、石は飛んでくる大聖堂の扉を押し開けた瞬間、冷たい夜気と一緒に、数え切れないほどの視線が流れ込んできた。広場を埋め尽くした人々の多くは、十二の聖灯へ自分の魔力を差し出した直後だった。立っているだけでも苦しいのだろう。家族の肩を借りている者や、その場へ座り込んでいる者が目立ち、治療師たちは転倒した人や混乱の中で負傷した人の間を走り回っている。煙と汗、砕けた石材の粉っぽい匂いが混じる中、十二の鐘だけが、何事もなかったかのように澄んだ音を響かせていた。都市は落ちなかった。広場にいる全員が、その事実を理解しているはずだった。それなのに、歓声は上がらなかった。俺たちの背後から御厨統馬が姿を現すと、群衆のあちこちで息を呑む音が重なった。御厨の両手には魔力を封じる枷がはめられ、左右をヴァルガンとロランに固められている。それでも、四百年間も聖王ヴァレリウスとして崇拝されてきた男の顔を見間違える者はいなかった。最初に膝をついたのは、白髪の老人だった。「聖王陛下……本当に、お戻りになられたのですか。私は、幼い頃から毎朝あなたへ祈りを捧げてまいりました。どうか、どうかもう一度、この国をお導きください」老人の声は震えていた。御厨が自分は聖王ではないと告白した事実よりも、目の前に信じ続けた顔があることのほうが、彼にとっては重いらしい。一人が膝をつくと、その隣にいた女も祈るように両手を組み、さらに数人が続いた。しかし別の場所からは、それをかき消すような怒声が飛んだ。「そいつの命令のせいで、俺の父親は異端者として処刑されたんだぞ!」「聖王なんかじゃない! 四百年も俺たちを騙していた化け物だ!」「大司教も同罪だ! 今すぐ二人とも首を落とせ!」感謝も憎しみも信仰も恐怖も、誰かが一声発するたびに別の方向へ膨らんでいく。皆が同じ都市を救おうと聖灯へ魔力を注いだばかりなのに、救われたあとに何を望むかまでは同じではなかった。そんな当たり前のことを、俺たちは何度も見落としてきた。危機が
第46話 「聖王ヴァレリウス」は、俺の名前じゃない「我が名は、聖王ヴァレリウス」自分の口から流れた言葉が、大聖堂の天井へ反響した。参列者たちが一斉に頭を垂れ、聖都騎士は剣を胸へ当てる。セヴラン大司教は満足そうに両腕を広げ、聖王の帰還を祝福する祈りを唱え始めた。誰も、俺が望んで名乗ったのかを確かめようとしない。祭壇へ集められた信仰が、頭上の聖冠を通じて流れ込んでくる。額から入り込んだ冷たい力は、血管へ沿うように全身へ広がり、俺の記憶を一つずつ塗り替えようとしていた。日本で生まれ、父に名づけられた如月遥人。通訳しかできない役立たずとして、人間の国から追放された男。リシアと偽装婚約を結び、フィーネから兄と呼ばれ、ようやくこの世界にも帰る場所を作った俺。そうした記憶の上へ、俺が経験していない四百年分の歴史が重なっていく。病人へ薬を飲めと命じ、国王へ戦争をやめろと告げ、飢えた民へ穀物を分け与えた聖王。人々から感謝され、自分だけが正しい答えを持つと信じるようになり、やがて世界中から選択する権利を奪おうとした男。御厨統馬がヴァレリウスとして生きた記憶を、聖冠は俺の過去として受け入れさせようとしていた。俺は御厨ではない。そう考えたはずなのに、すぐに別の声が頭の中で囁く。同じ日本から来た人間で、同じように言葉を理解する力を与えられた。御厨が失敗したのは、力の使い方を誤ったからであり、俺ならば正しく使える。命令する相手を間違えず、善良な者を守り、悪人だけを従わせれば、世界は平和になる。今度こそ、誰も傷つかない答えを選べる。聖都を救える。戦争を止められる。父のいる日本へ帰る道さえ、もう一度開けるかもしれない。懐へ入れた実家の鍵が熱を持ったように感じられた。父さんへ会える。結婚するリシアを紹介し、フィーネも連れて日本の家へ帰れる。始祖竜の力だけでは開けないと言われた道も、聖冠へ集まる世界中の信仰を使えば、無理やり開けるかもしれない。そのた
第45話 十万人を救うために、一人を聖王にはさせない「戴冠を止めれば、聖都にいる十万人が全員死ぬ」祭壇に拘束されたカナタの言葉が、斜線入りの円を通じて俺へ届いた。大聖堂の床を覆う巨大な術式は、心臓のような間隔で赤く脈打っている。光が強くなるたびに建物全体がわずかに沈み、天井から細かな石灰が落ちた。聖都中心部を支える浮遊術式が不安定になっているという御厨の推測は、間違っていないらしい。祭壇を囲む聖都議会の者たちは、揺れを恐れていなかった。自分たちだけは安全だと信じているのか、それとも十万人を人質にすればカナタが必ず折れると確信しているのか。どちらにしても、都市ごと谷底へ落ちる可能性を前にして、ずいぶん落ち着いていた。「カナタ、聞こえるか」俺は物陰に身を隠したまま、同意通訳の細い光へ意識を向けた。「聞こえてる。ただし、大声で話しかけないでくれ。聖冠が俺の意思を読み取ろうとしている。おまえとの道に気づかれたら、遮断されるかもしれない」カナタは祭壇の上で俯き、俺たちのいる扉を見ていない。それでも言葉の意味は途切れずに届いていた。「聖都が落ちるという話を、誰から聞いた」「聖都議会をまとめているセヴラン大司教だ。俺が聖王の名を受け入れなければ、正午に浮遊術式への供給を止めると言われた。嘘かもしれないと思ったけど、聖冠を通して都市の土台とつながれてから、あいつの言葉が本当だとわかった」「浮遊術式を切り離す方法は聞いていないのか?」「教えるわけがないだろう。それに、仮に方法があっても、俺を助けるために失敗して十万人を落としたら意味がない。ここへ来てくれたことは嬉しい。でも、俺はおまえたちへ帰ってほしい」カナタの声は落ち着いていた。自暴自棄になっているのではない。自分が何を失うのか理解したうえで、一人の名前と十万人の命を比べ、後者を選ぼうとしている。その選択を、俺が偽物だと決めつけることはできなかった。「カナタは、聖王になりたいのか」「なりたくない」返事に迷いはなかった。
第44話 俺の偽物が「助けに来るな」と言った布告文の末尾に描かれた、斜線入りの小さな円を見つめていると、言葉が誰にも通じなくなった夜の記憶が蘇った。円は同意を意味し、斜線を加えれば拒絶になる。言葉と本心が違うときには、文の最後へ壊れた円を描く。御厨に万象通訳を奪われた俺たちが、互いの意思を確かめるために作った、ひどく不格好で単純な印だった。その使い方を、カナタも知っている。『私は自らの意思により、新聖王の名を受け入れる』署名の上に並んだ言葉は、すべて嘘だ。カナタは俺の姿と記憶を利用して作られた存在だったが、最後には誰かの代用品として生きることを拒み、自分で選んだ名を持った。その彼が、御厨の代わりとなる聖王の座を望むはずがない。「戴冠式は、明日の正午だと言ったな」俺が確認すると、伝令の兵士は緊張した顔で頷いた。「はい。ただし、この布告が聖都から発送されたのは昨日の夜です。日付が変わっておりますので、正確には本日の正午となります」広場に設置された時鐘は、夜明けから一刻ほど過ぎたことを示していた。式まで残されているのは、五時間にも満たない。聖都までは、竜族の軍用飛竜を使っても半日はかかる。アレクシオやリシアが竜の姿になり、全速力で飛べば間に合う可能性はあるが、人を背負ったまま長距離を飛ぶことになる。途中で見つかれば、竜帝国による聖都襲撃と受け取られるだろう。「人間側の臨時連合は、この戴冠を認めているのか?」ロランは布告文に並んだ封蝋を調べながら、ゆっくりと首を横へ振った。「ここに押されているのは聖都議会と、聖都へ駐留する三つの騎士団の印だけです。各国の代表へ相談した形跡はありません。しかし、聖都は長年、人間諸国の信仰を束ねてきました。戴冠式を強行され、民衆が新聖王を認めてしまえば、国王たちも簡単には否定できなくなるでしょう」「本人の意思を無視した戴冠でもか」「民衆へ、その事実は伝えられません。布告だけを読めば、カナタ殿は自ら聖王になると申し出たように見えます。あなたと同じ姿を持ち、世界を救った者の記憶まで継いでいる
第43話 世界を救った翌朝、俺たちは結婚を決めた「世界から聖王と呼ばれるためではなく、私の隣で生きるために、私と結婚してくれますか」リシアの声は、始祖竜から分け与えられた新しい通訳の力を通して、まっすぐ俺の中へ届いた。聞き間違える余地はない。偽装婚約でも、竜帝国と人間諸国の関係を安定させるための政治的な婚姻でもなく、リシア・ヴァルドレイクという一人の女性が、如月遥人という一人の男へ結婚を申し込んでいる。ずっと望んでいたはずの言葉だった。それなのに、俺はすぐに返事ができなかった。広場へ集まった竜族の兵士たちが、固唾を呑んでこちらを見守っている。ロランや神崎だけでなく、母親であるガルディア、元婚約者候補のアレクシオ、始祖竜やフィーネまで、誰一人として目を逸らそうとしない。人前で返事をすることが恥ずかしいのではない。俺がここで結婚を受け入れれば、新聖王という名から逃れるためにリシアを選んだように見える。それが嫌だった。世界から与えられる役割を拒むため、別の役割へ逃げ込むのなら、結局は御厨と変わらない。自分が望んだのではなく、必要だったから選んだのだと言い訳する余地を残したまま、リシアの手を取ることになる。「ハルト」返事を待つリシアの指から、少しずつ力が抜けていった。俺が迷っている理由を、彼女は別の意味に受け取ったらしい。強い決意を宿していた瞳が揺らぎ、やがて自分から手を離そうとする。「申し訳ありません。いま、このような状況で尋ねるべきではありませんでした」「待ってくれ。断ろうとしてるわけじゃない」「それなら、なぜ黙っているのですか。結婚したいかどうかを尋ねられて、返事をするまでにこれほど考えなければならないのなら、それは少なくとも、迷わず望める答えではないのでしょう」リシアは冷静に話そうとしていたが、語尾がわずかに震えていた。魂語が聞こえなくてもわかる。傷つけた。俺は、答え方を慎重に考えることばかりに気を取られ、質問した側が沈黙をどう受け取るかまで考え







